仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

お盆とユング 4

われわれの見聞の印象があまりにも鮮明すぎると、

われわれは現時点にとらわれてしまい、われらに伝わる先祖の精神が、

どのような仕方で現在を聞きわけ理解するのか、

換言すれば、われわれの無意識が現在に対してどのように反応するのか、

わからなくなってしまう。だからわれわれは、自分のうちの先祖の

構成部分がわれわれの生活と喜んで関わっているのか、あるいは逆に、

嫌ってさけているのかどうか、知らないままでいる。

内的な平安と満足とは、個人に生まれながらに具わっている歴史的家族が、

はかない現在の状況と調和するかどうかに、大いに左右されるのである。

(以上、ユング自伝 ー思い出・夢・思想ー 2より抜粋)

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*先ほど、きつねの嫁入りがあったと書いたが(ユングとお盆 2)

あれはあのとき戦争で亡くなった人々、残されて涙にくれた人々の

涙だったのだろうか・・・?

あの時代を生きて彼岸へと旅立った人たちが、今の日本の現状を見たら、

はたして何と思うだろう?

有名な杜甫の詩「春望」に 「国破れて山河在り」という一節が

ある・・・・国は滅びた。人間社会は無残にも変転していくが、

自然は変わることなく存在している、と謳った

・・・その杜甫にしても、戦争に負けたわけでもないのに、

国土はいうに及ばず、水や空気・海までが放射能で汚染され、

安心して飲める水や空気、子供たちが安心して遊び回れる大地が失われて

しまった今の日本の現状を見たら、彼らにこんな状況が理解ができるか

どうかは分からないが、何と謳うだろう?彼らにはこんな事態が起こりうる

という事自体、呑み込めないに違いない。

私たちにしても、彼らに言うべき言葉が見つけられないだろう。

すべては人類が背負ったカルマ・過去の所業の総決算だから

仕方ないんですよね、とは言えないんじゃないだろうか?

 

漂い流れる鉦の音・晴れた空から落ちてきた水滴・

先人の涙・そしてユング

 

私のコスモスで起こったシンクロ

お盆とユング 3

前進による改善、つまり新しい方式や工夫による改善は、

もちろんはじめは感心させるものであるが、時の経つとともに、

それらは疑わしくなり、いずれにしても高価につく。

それらは決して、全体としては人々の満足や幸福をたかめるものではない。

たいていは、人間存在のはかない甘味料である。

それはたとえば、不快な、ただ生活のテンポを速めるだけの、

そしてわれわれに昔と比べて時間のゆとりをもたせない、

迅速な報道機関のようなものである。

昔の親方(マイスター)たちは、「すべて急ぐものは悪魔の仕業」

というのがつねであった。

他方、逆行による改善は、原則として、より安価でその上永続性がある。

というのは、それらは過去のより単純で確認ずみの方法に立戻って、

新聞、ラジオ、テレビジョンなど、いわば時間節約のための新法案をすべて

出来るだけ使わないようにするからである。・・・(途中、省略)・・・

しかしそれは理性的思考の産物ではない。

むしろそれは故意に目をなかばとじ、耳に蓋をして、存在の形を見、

声を聴こうとする人にあらわれてくるような、幻像(ヴィジョン)である。

 

お盆とユング 2

今読みかけのユング自伝2(みすず書房)の「塔」というところに、

興味深い記述があったので、長くなってしまうが、

ここにその抜粋を紹介しようと思う。

*この文章を書いている最中、2011年8月15日12時19分、

ほんのわずかの間だったがきつねの嫁入り・・・

晴れた空から雨粒が落ちてきた。

What kindo of message is this?  不思議な気分。

今日は66年前、日本が太平洋戦争に負けたことを知らされた日でもある。

 

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ユング自伝 ー思い出・夢・思想ー 2 より

われわれの心は、身体と同様に、すべてはすでに祖先たちに存在した個別的要素からなり立っている。個人的な心における「新しさ」というのは、太古の構成要素の無限に変化する再構成なのだ。したがって肉体も精神も、すぐれて歴史的性質をもち、新しいもの、つまり今ここに生起するもののなかに、独自といえる個所はない。すなわち、そこでは先祖の要素がただ部分的にあらわれているにすぎないだけである。現代精神が装っているように、われわれは中世、古代、原始時代を、完全に卒業したわけではない。それどころかわれわれは、進歩という奔流に身を投じたが、その進歩のわれわれを未来へと流し去る力が凶暴であればあるほど、われわれをますます根こそぎにしてしまう。ひとたび過去が破られると、常に過去は絶滅され、前身運動を留めるものがなくなってしまう。しかしまさにこの過去との連関の喪失、根絶が「文明の不快」を生ぜしめ、またわれわれの進化論的な全背景の到達していない現在に生きるよりは、むしろ未来に、黄金時代という架空の約束のなかに生きるという混乱とせっかちさを引き起こすのである。われわれは目新しいものへと性急にとびこみ、物足りなさ、満たされぬ思い、いら立ちなどの感情の感情のたかまりにかり立てられる。われわれはもはや所有しているもののなかに生きることはできず、約束に生き、今日の光の中に住まず、未来の暗闇に住み、最後には未来が真の来光をもたらしてくれると期待している。良きものはすべて何らかの悪しきものによって購われるということ、たとえば、輝かしい科学的発見によってわれわれは恐るべき危険にさらされていることは言わずもがな、大なる自由という希望は国家への隷属の増大によって帳消しされていることを、認めようとはしない。われわれの父や祖父たちの求めたものを理解しなければ、それだけわれわれはますます自分自身を理解しなくなる。かくして、われわれは個人としての根源と、自分を導く本能とを断ち切ることに全力をあげて加担し、その結果ニーチェが「重力の精神」と呼んだものによってのみ支配される集団の一分子となるのである。

つづく

お盆とユング 1

2011年のお盆に書いた過去のブログを、少しだけアレンジしてもう一度ここに復活させようと思います

(2011年8月15日に書いたようです)

昨日の昼過ぎから家族は夫の実家に出かけ、私は3匹の犬と猫1匹とともに例年通り一人家に残った。お盆ということもあって、草刈りや害獣駆除という名目で連なって裏山に急ぐハンターの車の音もなく、久しぶりに静けさを取り戻したような時間。(蝉の何重奏かだけがせわしなげに鳴り響いている)

普段よりもゆるく過ぎていく時間の中で、隣家から聞こえてくる先祖供養の鉦の音が、ひときわ静けさを感じさせてくれるとともに、家と家、誰々所有の土地という仕切り・境界線を越えて、本当は私たちが切れ目のない、ひとつながりの空間に在るのだということを思い出させてくれた。心地よく流れてくる鉦の音に、目を閉じ耳を傾けながら、普段はすっかり忘却の彼方に追いやってしまっているまだ見ぬご先祖様へ手を合わせ、感謝の祈りを捧げた。

普段、私はグレートスピリットに英語でお祈りをしている。家族やご先祖様、生きとし生けるもの、目に見えぬあまたの存在、4つのエレメントなど・・・それこそありとあらゆるものに祈りを捧げているが、私がそういう祈り方を学んだのは、たまたまアメリカにいたときに参加したピース・ウォークでアメリカ・インディアンの人たちの祈り方から学んだことがきっかけになっている。彼らは(声を出して)部族の言葉で祈るときもあるが英語で祈るときもあり(それは私たち非インディアンを交えて共に祈るという配慮からだったかもしれない・・・)ともかくピース・ウォーク、アメリカ・インディアン・ムーヴメントを通じて、日本人でありながら英語で祈るのが習慣になっている。(ただし、神社にお参りするときは日本語。これまさにカメレオン的ナンデモアリの日本人的?もとい私の個人的な癖)

昨日は、鉦の音のf/1効果?のせいか、今の私につながる父母の父と母、そのまた先の父と母・・・と途切れることなく脈々と続いてきた血縁の流れ、そして、たまたま何かのきっかけで住むことになったこの土地との縁、この土地の暮らしを築き、守り続けてきた人々のたゆみない流れ・・・それらにつながる縁が、自分の中にひたひたと流れ込んでいるように強く感じられた。

アメリカ・インディアンの人たちといたとき、祈るのは一人一人ですが、大抵彼らは声を出して祈っていました。もちろん、声を出さないで心の中で祈ることもあるだろうと思います。

つづく