仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

夏の醍醐味 〜波と魚と鳥たちと〜 2 

至福のとき

その日のスペシャルはビックリするくらい魚が波間を飛んでいたこと。これまでに、それほど夥しい数の魚が海面から飛び上がるのは見たことがない。その時が満ち潮だったことも関係があったのか、あちらでもこちらでも、遠く近く、それこそ波打ち際にも次から次に、めくるめく魚の乱舞が見られました。(ちょっと大袈裟です^^;)そのせいで釣り人が多かったのか、気付けば海水浴をしているのは私たち家族だけとなっていました。

それから飛び跳ねる大漁の予感からか沢山の魚たちを狙って、カモメやその他の海鳥たちも飛んでいました。お馴染みではあるものの、波間から眺めるカモメもまた格別で、狙われはしないけれども、ちょっとしたお魚気分。別の角度、視点から味わう自然も面白い。自然と一体になったような感覚というのかな?

上の子は超ご満悦で、ずっと海に入りっぱなし。いつもはおなかが空いた、おなかが空いたと、兎に角おやつ、おやつ、何か食べる物とうるさいくらいなのに、その時は全く食べることなど頭になく、何とか休憩をさせた時も、お昼に用意した大好物のおにぎりにも目をくれず、砂浜を走り回っていました。

夢中になるものがあると子供って凄いんだなって、これも新たな発見でした。特に上の子は川で遊んだ時も、海にいた時も本当に生き生きとしていて、夢中で身体を動かしていたのが印象的でした。

こんな風にいつも全身で自然を受け止めながら、身体丸ごとの感覚、体験を重ねていけたら、どんなにいいだろう。知識なんて要る?ずっと遊んでいて欲しい。遊ばせてあげたい。必要なのはコレだよ!

ここが、海が、川が、自然がフリースクール。言うなら、地球が学校!(どこかで聞いたことのあるフレーズだな。^^;)人生そのものが自然で、私たちは、大人も子供も人生そのものと遊べばいいんだ。自然の中で体験することで、自分なりの生きていく知恵みたいなものが培っていけたらいいなあ。。。と、そこまで自然と共にある生活をしている訳ではない自分のことはすっかり棚に上げて、またもや夢見て、妄想る(=耽けるウケる)私でありました。

*上の写真は波に揺られて、超ご満悦のお孫ちゃんの写真です。(見ての通りです^^)私も一緒にいるはずなのに、ちょっとどこにどういう状態でいるのか、よく見ると謎です。心霊写真ではありません。超健康的なハッピー満開!ハッピーそのものの写真です。念の為^^;

夏の醍醐味 〜波と魚と鳥たちと〜 1

千代崎海岸

どこかで聞いたことのあるようなニュアンスのサブタイトルになってしまいましたが^^;、先日、家から1時間程の千代崎海岸へ、海水浴に行って来ました。娘の第一希望は、紀伊半島をさらに南に下った、水のきれいな志摩あたりの海だったのですが、その日の夜に東京に戻るというので、志摩方面まで出かけるのは現実的には少し無理があるということで、近場でたまに貝殻やシーグラスなどを拾いに行って土地勘もある千代崎海岸にしようということになりました。夏の間は一応、海水浴場になっているので、どういう状況かは分からないものの、兎に角、海であればいいだろうというかなり譲歩した、でも、こちらとしては遠出するよりは楽だし、まあしょうがないかと、留守番するつもりでいた私は最初は無理矢理、結局家族に押し切られた形で渋々出かけたのでした。(何しろ今となっては、高温多湿の夏が超苦手で、日中出かけることはできる限り避けたいと思う私であります)

千代崎海岸に着いてみると、海の家はあるもののクローズだし、海水浴を楽しんでいる人もいるにはいたけれども、それより海に入って釣りをしている人の方が圧倒的に多くて安心したような拍子抜けしたような。。。兎に角、どの辺にするか決めようと歩き出して、荷物を運びがてらおおよそこの辺という場所を決めたけれど、シャワーも水栓が元で閉めてあるのか出ないようだし、まあどこでも良かった、ミタイナ笑。

子供の方はもう大張り切りで、もうじき7才になる上の女の子は(あ、私にとっては孫です)早くも浮き輪を身に付けて浮き輪と一体化、一刻も海に入ろうと前のめり。まあまあ待ちなさいと制しながら、私も少し遅れて海へ。

海の中に入ると、結構波があって、お孫ちゃんの浮き輪につかまって、波にゆらゆら。すでに気分は極楽。娘と下の女の子(4才)もやって来て、大きな波が来たらみんなで浮き輪を中心に、「来たよ〜」とか「おっきいの来るよー」と声をかけながら波乗り。泳ぎがそれほど得意でない私たちには浮き輪は必須だけれども、それ以外は身体一つでダイナミックな気分で遊べる楽しい楽しい波遊び。

川の優しさと違って海はドシャーンっていう波の音も物凄くダイナミック!(ドシャーンじゃないよ波の音は、って思われる方もいるかも知れませんが、私のオノマトペ感覚ではドシャーンでした、あの時は^^)地球って大きいんだーっていうことをダイレクトに目で耳で肌で、全身で感じ取りました。

海の中でじっと立って浮き輪を持ってて!動かないで!!と7才の子に命令されて、動かないようにしようと思うものの、波の力が強すぎて、否応なく歩かされてしまって、自分達の居場所の目印にしているパラソルから、少しずつビーチに沿って横にずれて離れて行ってしまうのでした。それで頑張って、元の位置に歩いて戻って踏み止まろうとするものの、その奮闘も虚しく、どんどん動かされて行ってしまう。7才の子がまたも動かないでって要求するので、「動いて行っちゃうんだよ〜!」と弁明。事実だから仕方がないのです。自然の力には勝てないし、波の強さ、地球の底力を改めて身体を通して再認識しました。

波間に浮かんでいる時も、押し寄せてくる波のうねりがそれこそサーフィンができるんじゃないかと思うくらい物凄くて、まるで形をもたない生き物に押されて、引き戻されて、弄ばれている。翻弄されるというのは、まさにこういうことだと感じました。

当たり前だけど、海は生きている。生きて、呼吸している。海は、地球は、ダイナミックに動く生き物でした。あ、忘れてただけかも。。。^^;

夏の醍醐味 〜水遊び〜

石水渓

立秋を過ぎて、お盆を前にツクツクボウシが鳴き始めました。暑さが続く中にも夕方になると吹く風がどこか涼しくなって、季節の暦の確かさにはいつも驚かされます。

今年の夏は東京に住んでいる娘と子供たちが、夏の真っ盛りの8月1日に帰省して来ました。目的のひとつは津市にあるフリースクールを見学することで、もうひとつの、多分、こちらが本命の目的は川や海に遊びに行くことでした。娘たちの滞在中、結構雨にも降られたので、毎日水遊びという訳にはいきませんでしたが、それでも何とか川に1日、最後の日に海へとノルマを果たすかのように、1日ずつ川と海での水遊びを堪能しました。

これまでも数えきれないくらい何度も、海にも川にも行き、その楽しさを十分に味わってきたはずなのに、なぜか今年は格別の感触があって、水は生き物なのだという生(なま)の感覚を味わいました。

家の近くに石水渓という春には新緑を楽しみ、夏には水遊びと、自然を満喫するのにもってこいの場所があって、その石水渓で子供たちと遊ぶのに程よい場所を、近所の知り合いが教えてくれて、まるでプライベート・ビーチのように私たち家族と、教えてくれた知り合いと彼女の小2になる息子さん6人だけで、ゆっくり過ごすことができました。

浅すぎず深すぎず、流れも程よくある場所で、まずうつ伏せの状態で顔を水に浸け、そのまま身体の力を抜いて、流れに流されるままにただ浮かんでいる。次に仰向けになって、同じように浮かんで漂う。わずか数メートル流される間のことながら、その僅かな間、頭の中が水音だけになる。いつもは頭のお喋りが止まらない私も、流石にその時だけは無の境地(に限りなく近い状態)になれました。

かつてはもっと泳げるようになりたいとか、ハワイ島で出会ったヒーラーの人がイルカは活発で慌ただしいけれども、海亀とはゆったり泳げるので楽しくて、太平洋をどこまでも泳いだ、なんていう話を聞いて、ああ私もいつかハワイの海で海亀と一緒に泳ぎたいとか、海に潜って色とりどりの魚たちやイソギンチャクや海藻が揺れる世界を味わいたいなどと、やたらに憧れまくったりもしたのですが。。。(その為にはスイミングに通って、ちゃんとした泳ぎを身につける必要があると考えたことも^^;)

ところが、この間、川遊びに行った時は、何もせず、ただ全身の力を抜いて、水に浮かんでいるだけ、ただそれだけで十分。あれやこれやの思いが抜け落ちて、流れに委ねるということを体感しました。そして、まさにこれこそが生きた瞑想なんだと思い至りました。

座禅を組んで、第三の眼を意識して瞑想するなんていうことも、中途半端にやってみたりしてはいたものの、何か行き着くところに行き着けないようなもどかしさを感じていました。ところがところが、川に浮かんでいた時は、全く努力なしで無心の境地に至れることが分かって、こんなにダイレクトな瞑想法が身近なところにあったんだと再認識しました。

昔、「おさかなになったワ・タ・シ〜」とバスタブの中で女の子が歌っているコマーシャルがありましたが、おさかなになるって、まさにこういうことだったんだねっていう感じです。

(昨年、水屋神社に行った時に、神社の裏を流れる櫛田川の川岸で、川の流れに乗って、川を下って行く鯉を見て、太極拳か気功のマスターのようだと感じたという記事を書いたことがありました。パラダイス・タイム(水屋神社) - 仙人草の咲く庭で

解放されるっていうのは、こういうことだったんだ。

知っている人は、とっくの昔に知っている当たり前のことだったのかも知れませんが、私にとってはまさに目から鱗の、おさかな体験でした。

もちろん、その体験のためには、その川が浅すぎず深すぎず、ちょうど良い速さの流れであることという、川が安全で不安を感じるような要素が一切ないという条件付きではありますが。

そういった条件さえあれば、気ら〜くに全身の力を抜いて、川の流れにすべてを委ねることができます。水恐怖症でない方には超お勧めの水遊び瞑想です。

出来ることなら毎日でも水遊びをしたいくらいですが、同じ場所でも雨で増水したり、自然は同じまま留まってはいないので、たった半日くらいの僅かな時間でも貴重な体験ができたことを歓んで、感謝したいと思います。

*水遊びをした日(8/3)、その日の写真を送ってもらったので、記事を投稿した時に使った何年か前の石水渓の写真と差し替えました。川に浮かんでいたのは、この場所の少し先のところです。

Kieri 〜風の木〜 追記

風の木へと苦しい巡礼の旅をして、目的地に辿り着いた巡礼が行う儀式や風の木から巡礼者へ注がれる祝福。。。巡礼をしたことのない人間にとっては不思議に思えることばかりです。

またメキシコや中南米・南米の先住民に特有の生贄のことや生贄にした動物の血を注ぐことなども、現代日本を生きる私にとっては恐ろしくも謎めいています。

血というものがスピリットと特別な関係を結ぶことに関わっているのだろうということは想像がつきます。メキシコの巡礼でなくても、日本やヨーロッパでも血判書のように特別に重要な契約を交わす時に、自らの身を切って血を流し、その血で判を押す。あるいはお互いの血を交わらせることで、固い契りを結ぶなどということがあります。(よく分からない世界ですが・・・^^;)

余談ですが。そういえば、何かで読んだのですが(記憶が曖昧なので間違っている箇所もあるかと思いますが、その辺は情状酌量していただくことにして・・・)、南米のペルーやメキシコで行われていた人身御供。太陽神への供物として幼い子供や女性、男性を生贄として祭壇に捧げて、生きたまま首から切断したそうです。文字通り、生きた人間の血や、頭、特に脳みそは神への捧げ物として欠かせないものだったようです。おぞましいとしか言いようのない慣習だったと思うのですが、アズテックやアズテック以前の人々は、生に対する執着よりも、太陽神に自分の身を捧げることで、自分があちらの世界でより大きな報酬を得られる、霊格が上がる(だったかな?)、、、(この辺の記憶があやふやで怪しいです^^;)兎に角、私たちには理解しがたいことですが、彼らは嬉々として身を捧げたという話でした。

風の木のスピリットという目に見えないものに対して、動物の生贄の血を注ぐ。そこに至るまでの過程においても、血を流すところまではいかないにしても、巡礼をする者は死ぬほど苦しい思いをして汗や涙を流して歩く。

スピリットからの恩寵を受け取るためには、自分の身を捧げ尽くす覚悟が必須で、多大な自己犠牲を強いられる(もちろん自分自身の決断の下に)、それ程大きな犠牲を払うことができた暁には、死ぬ程手に入れたいと願ったスピリットから知恵や魔法の力という贈り物を受け取ることができる。。。

何となくその世界を想像はできても、知的な理解の範疇を越えることはできず、経験がないので腑に落ちたというところまではいきません。目に見えないものに対して、あまりにも生々しい生き血を注ぐという対比に圧倒されるばかりです。もっとライトな感覚でいけないものかな?なんていうのは、甘すぎる現代人特有の考えなんでしょうね?

風の木のスピリットという言葉に触発されて訳し始めたと言っても過言ではないのに、リアルなその世界にはほど遠いと感じる日常です。とは言っても、決してそれを卑下しているのでもネガティブになっているのでもなく、私にとってはこういうとても当たり前で平凡に思える日常に身を置くことに、目に見えないスピリットの計らい、働きがあるのだろうと思って、のんびり、のほほんと過ごしています。(少し、いやかなりだらけ気味の手前味噌だったかな?^^;)

何だか支離滅裂、何が言いたいのか訳がわからなくなってきました。巡礼の厳しさや血を注ぐという生々しさに引っかかって、ただ解説を訳して伝えるだけでは足りない気がしたので、今日改めて、自分の感想を付け加えてみました。(結局、大した内容じゃなかったですね😅・・・)

まだまだ暑い夏が続きます。できるだけゆったりと快適にお過ごし下さいね。