仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

夢は浸透し重なり合う ~ 植物のスピリット・メディスンより〜

林道脇の石

先週あたりから、この辺りも梅雨入りしました。激しい雨が降り続くと、時に世界はずっと水浸しだったかのような錯覚に陥ることもありますね。ちょっと気分が滅入ることもありますが、我が家にとっては、恵みの雨。何故かというと、現代日本では珍しい部類かも知れませんが、私の家は水道が家に来ていなくて井戸水で生活水の全てを賄っているからです。それ自体は善しとするにしても、困ったことにその肝心な井戸水に泥が混じっていることに、引っ越してから気づいたという。。。何と迂闊な、という話なのですが、そんな訳で現在の家に引っ越して以来、飲み水は山の湧水を汲みに行かざるを得ないのです。そして雨の少ない冬の時期には山の湧水も出が悪くなって、寒いのと時間がかかるので水汲みが面倒に感じてしまうのですが、雨がよく降るこの季節になると、湧水の出もグッと良くなるので、山の神様、水の神様に感謝、感謝なのです。お米や野菜を作って生活している農家の方もそうかも知れませんが、水道が当たり前の社会において、農家でもないのに、不便ながらも雨の恵みを実感する珍しい暮らしをしています。

改めまして、

第4章 メディスンと夢の中のからの抜粋です。

夢のもうひとつの興味深い特徴は、夢には浸透性があり重なり合うということだ。・・・・

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私は宇宙は非常に複雑な夢だと確信している。宇宙を創造し継続していくために、ドリーマーである神はより小さいたくさんのドリーマーを夢見る。これらのより小さいドリーマー、あるいは神々のそれぞれが世界の一つの部分を夢見ることに責任を負っている。たとえば、石の神は石を存在へともたらす長い夢を見る。そして雨の神がにわか雨を夢見ると雨が降る。彼らの夢は重なり合い、石は雨に濡れる。

人間は神のようなもので、私たち自身がドリーマーなのだ。時を経るにつれて、私たちはどんどん自分自身の夢の中に生きるようになり、それに応じて自然界の夢の中に生きることはますます少なくなっていく。これは分かりづらいことだ。魚は水を見ないし、ロサンゼルスっ子はスモッグに気づかないのと同様に、人間が自分自身の夢の中に生きているということを理解するのは難しい。そうでなければ、私たちは決してメディスを理解することはないだろう。

 *ここでのメディスンは薬(医薬品)という意味ではなく、一般的には植物のエキスやチンキ剤(tincture)、歌やマントラなど、癒しや歓びを与えてくれるもの、自然とのつながりによって力を与えてくれるものであれば、すべてメディスンと言うことができます。

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私たち自身が神のような存在で、ドリーマー(夢見る存在)、つまり創造に参加している存在だと気づくこと自体が癒しになると、私は感じています。第4章の他の部分でも夢について語られていて、夢のもつ不思議な力や、今も創造の神話の中に生きているアボリジニのことに触れたエピソードも出てきます。それは全く寓話や夢物語などではなく、単に私たちの多くが失ってしまったものに気づかせてくれるものなのではないかと思っています。夢の持つ創造する力や、自分の中に潜在するそうした力を、今、ハッキリと掴めないとしても、そういった可能性に心を開くだけで、少しだけ人生が広がるかも知れません。

雨の日に公園を散歩したりどこか外に出かけて、雨に濡れた小石を眺めてみてはどうでしょう?もしかしたら、石があなたに話しかけてくるかも知れません。文字通りの言葉ではないかも知れませんが、何か閃いたり、心がスッキリしたり落ち着いたり、何となくいい気分になるというようなことがあるかも知れません。自然界の存在、たとえば石や植物、あるいは貝殻でも何でも構わないので、そうした自然界の存在に心を開いて(素直になって)、自分の心の中にあることや悩みを打ち明けたら、案外、気づいたら問題だと思っていたことが問題じゃなくなってた、っていうこともあるかも知れませんよ。一度お試しあれ!

*上の写真の石は、家の裏手の林道の脇に転がっていた石です。(たぶん今も在るでしょう) 以前、「雲走る」という記事の中で使った写真ですが、もう一度ここで使ってみました。